コーディネーター

土田 衛 (つちだ まもる)
チーフコーディネーター /
ぐれいす(GRACE)代表
新潟県三条市出身
4250gという超巨大児でこの世に生を受ける。
幼少のころは特に落ち着きがなく、小学1年時、
人事異動で学校を去る担任の先生から贈られた言葉は
「最後まで人の話が聞ける子になろう」(原文のまま)。
兄弟の影響で、小学校高学年になると
地元の郷土芸能を演奏する部活動に所属し、横笛や和太鼓を担当する
(大人になるまで続けていれば・・・と現在秘かに悔やんでいるらしい)。
 |
二歳の頃
(目の大きさだけは今と同じ!?) |
中学校時代は軟式庭球(現在のソフトテニス)部に入部。
3年時の引退までやり遂げるが、レギュラーには縁がなかった。
太陽の照る屋外が好きだったり、真夏の炎天下でも平気でスポーツができるのは、
この頃の経験に端を発しているらしい。
高校時代には引き続き軟式庭球部に所属するも、
高校生活が半分を過ぎる頃に家庭の事情から退部。
中学時代は比較的良かった成績は、この時期にはかなり低下していた。
また本人は、高校時代に1回だけ面接を受けたことがある。
その際に覚えているのは「将来、就きたい仕事は?」の問いにこう答えたこと。
「細かい職種は決めていませんが、人相手(=接客)の仕事がしたいです」。
高校を卒業し地元の大学に進学。
1年間はのんびりと学生生活を楽しむが、2年生になる時に突然、テニスサークルを創設する。
 |
テニス活動時代 |
「何かやらなきゃ、と思いました。
中学や高校と違い、大学って何もしなければ友達すらできない。
でも、せっかく2年に進級できたんだから
フツーにどこかに所属するだけでは何だかもったいない。
自分ができることを考えた時、中学高校時代にやっていたテニスで、
新しい団体を作っちゃおうかな、という…。
今 考えると、とても安易です」。
しかし前述のように、自身に経験があるのは軟式庭球(ソフトテニス)。
しかも技術レベルはかなり低く、自身は一般に行われる硬式庭球の経験もない。
「それなら、友人にコーチがいるので、彼を講師に迎えて活動しようと思いました。
"あの松岡修造氏と一緒の合宿に参加したことがある"という後輩も入部してくれ、
同様にコーチとしてフル活用。なんとか体裁を保ちました。
あとは団体としてのスタンスをしっかり決めましたので、後発でしたがメンバーを集める自信はありました」。
当時は大学のテニスサークルといえば軟弱なイメージもある中で、
"真面目に練習をするサークル"として活動を始め、同部は初年度にしてメンバー100名を擁するサークルに。
2年後には学内でも3本の指に入る大グループへと成長させた。
 |
23歳 旅行業時代
(お客様を引率する添乗業務中。
右手には必携道具である
旅程表バインダーが。) |
大学卒業後、新潟県内の大手旅客運輸会社に入社。
旅行業に従事し、団体旅行営業や添乗員業務を担当した。
渉外営業での顧客との交渉や、
"縁の下の力持ち"的な役目の添乗業務が本人の性格にハマり、
多忙で土・日曜日や祝日も出勤する毎日にもかかわらず
「全く苦にならなかったです。
食事の時も、(忙しくて残業することはわかっているから、)
行儀の悪い話ですが口はモグモグやりながら、ひたすら仕事をしてました」。
3年後、畑違いの総務部総務課に人事異動。
これが本人を起業へと駆り立てる。
「それまで、『売り上げ額は○○○円だ!』
『例の新規のお客様は獲得できたか!?』という会話が日常だった
営業部門から、いきなり事務系の管理部門への異動でしたので、
初めは環境になじめず大変でした。
でも、人間ってやっぱり慣れるんですね。
9時に始業してしっかり1時間の昼食休憩を取り、
5時30分に終業するスタイルにも違和感を感じなくなって来るんです。
 |
学生時代 |
でも、思った。
『自分は今26歳だ、ビジネスマンとして最も無理がきく年齢なのに、
こんなに楽をしていいのか!
ここで自らを過酷な環境に置かないと、
このまま歳だけとっていってしまう!』…と。
人知れず、大きな危機感を抱えていました」。
そして27歳で同社を退社する。
平成7年、"新潟県内初"となる独立系ブライダルブロデュース専門会社「ぐれいす(GRACE)」を設立。
レストランや料亭でのオリジナルウェディングのプランニング・コーディネート・サポートを行い、
併せて司会やブライダルグッズ・ギフトの卸・小売販売を手がけていった。
結婚式や披露宴を扱う場合、料理や飲物の提供を除けば、
意外にも免許や資格・公的機関への届出は必要ではない。
しかし、ブライダル業務には基礎はもちろん信用も必要であると考え、単身、都内へと赴いた。
結果、新潟県内で初めて、経済産業省所轄(社)BIA認定の
「ブライダルコーディネーター(中級)」および「ブライダルマネージャー(上級)」を取得。
後に、県内では珍しい「パーティーコーディネーター」、「チャペルディレクター」資格も取得している。
「なぜこの仕事を選んだのですか?とよく聞かれます。
私は、自分は決して目立つタイプではないですが、
縁の下の力持ちというか、他人のお手伝い役を好むタイプなんですね。
『個人レベルで行う最大のイベントってなんだろう、きっと結婚式&披露宴だな。
旅行は旅行会社で相談できるし、不動産会社に行けば土地や建物物件のことは相談できる。
同じように、いろいろな結婚式・披露宴が相談できる専門の会社があったら便利だよな。
ウェディングの道に詳しくて "幹事"を引き受けてくれる専門会社があったらニーズはあるんじゃないか?』
…そんなふうに考えたんです」。
何より、自身の幹事的な性格を活かせる仕事であったが、
設立当時の新潟では"ウェディングのプロデュース"という業種は全く知られていなかった。
周囲からは冷ややかな反応しか得られず、
設立当初は運営資金の捻出のため、
業務終了後の夜間にアルバイトをしていた時期もあったという。
そんな状況の中、意外にも本人は自信を持っていた。
もとが営業マンだったためか、
ユーザーの視点で物事を考えることには長けていた。
 |
専門学校で教鞭をとる |
「"丁寧に明るい対応をし、専門家としての知識をもって、
きっちりと丁寧な仕事をする。
大手結婚式場にあるような、左から右への大量生産型の婚礼とは真逆で、
人手を惜しまずに掛けるスタイルを徹底して、
お客様と一丸となって楽しいウェディングを作り上げる"。
…簡単なようだが誰にでもできることではない。
我々スタッフ側の人間性が優れていれば、
お客様には必ず支持してもらえるはずだ」。
読みは見事に的中、設立から2年後には大ブレイク。
顧客からの依頼が殺到するようになる。
 |
笑顔で若者や学生の
ヤル気を出すのが得意 |
平成9年からは後進の指導にあたり、
現在も県内の大手専門学校の講師も兼務。
平成12年に改組し代表取締役に就任、現在に至る。
新潟県内のブライダル業界発展のために設立された
「新潟県ブライダル事業協会」の会長を平成17年から務めている。
ブライダルを起点として創業以降、
ひたすら「人」や「接客」、
「コミュニケーション」・「人の内面や感情」に特化。
また新潟では“一風変わった”事業をゼロから起業し
苦労の末に成功に導いた経験から、
以下のような講演依頼が後を絶たない。
・社会人向けのヤル気アップセミナー
・学生向けの職業講話、職業意識醸成の講演
・対話力を高めるコミュニケーション講座
・人前で話すノウハウ
・営業マン向け必勝対話術
・起業成功談・失敗談
また、人と心を通わせるプロであることが高じて、
「心理カウンセラー」・心身の調子の高低をうまく使って
日常生活や勉強・ビジネスに活用する
「バイオリズムコーディネーター」・「ポテンシャルアナライザー」の資格を取得。
(※注:日本一の分析量を誇る溝口メンタルセラピストスクール公認)
個別カウンセリングも行なっている。
創業から20余年、本人はこう語っている。
「もともと、私は結婚式場やホテルに勤めていた経験者ではありません。
設立当初から変わらない、
"お客様と一緒に、本気で、最高のウェディングを創る"
という思いを現在も変わらず実行しているだけです。
だからこそ皆さんに評価していただき、ここまで来れたのだと思います。
多くのお客様から認めていただいていることが本当に嬉しいです」
いつもニコニコ、が特徴的。
「童顔のせいか(!?)実際より若く見えるようで、光栄です」
錠 洋子 (いかり ようこ)
北海道札幌市出身
北海道・札幌市で育つ。
幼少から小学校時代まではとてもおとなしく、あまり目立たないタイプだった。
当時テレビで人気絶頂だったコメディアングループの
リーダーの名字(みようじ)と似ていることから、呼び名は“イカリヤ”。
「その呼ばれ方がイヤだったこともあって、おとなしさに拍車がかかった」(※本人談)。
 |
小学校の入学式の日。 |
中学校に進学と同時に軟式庭球部(現在のソフトテニス部)に入部。
もともと運動神経は良いうえに当時としては背は高め。
キャプテンとダブルスのペアを組み、
道大会(都または県大会に相当)に進むほどの腕前を発揮する。
この部活動がきっかけで、小学校時代のもの静かな女の子は、
“学年毎に必ずクラス委員長を務める、
スポーツ万能で明朗活発な少女”に変貌(!?)を遂げた。
中学卒業時に両親と共に祖父母の住む
新潟県三島郡寺泊町(現・長岡市)へ転居し、地元の高校に進学した。
 |
中学校のテニス部の友人と。
スコート姿でなくて残念!? |
入学から3年生まで野球部のマネージャーとして選手のサポート役に。
現役マネージャー時に県予選で
決勝戦(甲子園出場の一歩手前)まで進み、一つの目標に向かって
皆が一つになって頑張ることの素晴らしさを体感する。
高校卒業後は上京し、複写機製造メーカーにおいて
営業事務及び秘書として社会人のスタートをきった。
自ら「この頃は人生の中で最も輝いていたかもしれない」と言うほど、
都内での独身生活を満喫したらしい。
数年の勤務の後に親元にUターン。
地元企業でさらに数年、研鑽を積む。
 |
20歳、勤務先の先輩の
結婚披露宴にて…
ファッションに時代を感じます |
勤務時間の関係で地元のシティホテルに入社、初めての接客業を経験する。
「そのホテルでは結婚式・披露宴も行っており、
神前挙式で巫女を務めたこともありました。
接客サービススタッフとしてお手伝いに入った披露宴で、
鳥肌が立つくらいの感動を経験したんです。
その後も、披露宴の直前に新婦さんの具合の悪くなった時があり、
その場の関係スタッフが新婦さんを気遣ってする
動きの機敏さを目(ま)の当たりにしました。
とにかくお客様を最優先に考えて動く手際の良さに、
プロとしての尊敬と憧れの念が強くなりました」。
結婚・育児期間を経て、地元のホテルに入社。
観光・温泉地としても人気の同ホテルでは、フロントや温泉大浴場から経理まで幅広く担当。
一方でブライダル業務への思いはより一層強くなり、
社内で頼まれてもいないのにウェディングの仕事を手伝っていたというツワモノだった。
 |
地元新潟でのOL時代。 |
家庭事情で惜しまれつつ退社後も、ブライダル業への気持ちは高まるばかり。
“ダメでもともと”と、ウェディングの専門店であるぐれいす(GRACE)の門を叩き、
厳しい審査を通過して見事採用を射止める。
「実はぐれいす(GRACE)のことは前職時代に知っていて、
ホテル側の自分から見ても信頼できる会社だったので憧れはありました。
ただ、自分がそこのスタッフとして働けるとは想像していなかったので、
“専門的に”幸せな時の表現の瞬間に携われることへの喜びを感じています。
実は、自分自身の結婚式・披露宴には
『もうちょっとああすればよかったな』という思いがあるんです。
だからこそ、わずかな自分の経験ですけどそんな思いもお客様の為に提供し、
その最高の時を精一杯&手厚くサポートしたいです」
 |
いつも笑顔…ですが、
ウェディング中は真面目な表情にも。 |
経済産業省所轄(社)BIA認定
「アシスタントブライダルコーディネーター」資格所持。
その明るさがセールスポイント。
前述の“頼まれていないのにウェディングを手伝っていた”頃から、
お礼状が届いたり、
結婚したカップルが本人を訪ねて来たりすることは珍しくない。
当店イチ気さくなコーディネーター”は、
今日もカップルに笑顔で話し掛ける。
松橋 智宏 (まつはし ともひろ)
新潟県新潟市出身
昭和49年に新潟市西区にて生を受ける。
小学校時代は野球部に所属し、
守備ではピッチャーをはじめ全ポジションを任されるほど野球に打ち込む。
中学校でも、周囲からは当然野球部へと思われていたが、
「(当時は絶対の義務(!?)だった)坊主頭にするのが嫌だったんです。どうしても我慢できなくて」、他部へ。
 |
ステーキ専門店での
調理&フロア兼任時代。 |
市内の高校へ進学後も、“アンチ坊主頭”は続き、結局 部活動へは不参加。
周囲の友人が電車やバスで通学している中、
3年間ずっと、毎日50分間かけて自転車で通い通すという偉業(!?)を達成する。
「晴れの日も、風の日も、雨の日も、雪の日も、でした。
今 考えると危ないですよね。
凍結してても大雪でも、根性でチャリこいでましたから」。
接客サービス業への憧れと、
当時 高視聴率をマークしていた連続ドラマの影響も手伝って、
市内の大手ホテルに就職。
当初は宴会のサービスマンとしてその任につき、3年目からは初めてブライダル業務を手掛けた。
「当時のその部署は、ブライダルのスタッフといえば笑顔の似合うお姉様方(笑)。
つまり自分以外はすべて先輩の女性社員だったんです。
そこでは(名字から)『マツ、松』と呼ばれ弟のようにかわいがってもらいました。
希望する接客に就けていることと、先輩達に正しく指導していただいたおかげで、
ブライダル業務の素晴らしさに目覚めました」。
 |
パーティー準備中の
「倒れるヒマもない」店長時代。 |
とはいえ、料理や飲物の提供等の宴会サービスも重要な仕事。
「それなら別の店も見てみたい」と、一発奮起し、外食産業の会社に転職した。
まずは出来立てビールを醸造・提供するビアレストランへ。
そこでは、送迎バスの遅れによって入店前より大きなクレームを受けた顧客から、
食事後の退店時に「よくやってくれた」と祝儀を渡されるほど、
高度な接客スキルを発揮する。
次に県内で6店舗を展開するステーキ専門店を経験、
ホールだけでなく調理も担当することとなる。
「ここでは調理用のマイ鉄板が与えられ、
お客様から入ってくるオーダーを絶妙な加減で焼きまくりました。
火と時間の調整に集中しながら、ポテトを揚げるタイミングも外さない。
結果、“会心の一皿”が出来上がるというわけです。
今でも家で料理を作るのが好きなのは、この頃の経験が大きいですね」。
もともと料理人として修業してきていない自分に限界を感じ始めた頃、
元上司の勧めで、新潟市内のシティホテルに籍を移した。
そこではまず新店の立ち上げから運営までの責任者を務め、その後 人事異動。
新潟のレストランウェディングの草分けと言われ
“いつ行っても混んでいる人気レストラン”の5代目店長として就任した。
 |
ウェディング本番中に
ケーキ入刀のアテンド。 |
この店は、料理よし・立地よし・ロケーションよしと
三拍子揃っていたことで固定客も多く、とにかく多忙だった。
ランチ・ディナーの一般営業からクリスマスディナーなどの特別ディナー、
各種パーティー・歓送迎会・忘新年会、披露宴二次会…。
店の主催するイベントも多数開いており、
レストランウェディングも変わらずの人気だった。
目が回るような忙しさの中、
「必死でしたが充実した日々でした。
店のスタッフのチームワークもよかったんです」。
同店の歴代店長の中では最長在任記録を更新し続け、内外からの評価が高い証しだった。
しかし突然、黒字経営にも関わらず土地再開発計画のあおりで閉店が発表される。
最高のフィニッシュを迎える!と決意し、更にパワーを加速して持ち前の強靭な体力で店を牽引。
多くのファンが訪れる中、同店は惜しまれながらフィナーレを迎えた。
 |
新郎新婦やゲスト以上に
自分が楽しんでいるところ(!?) |
「このお店では、たくさんのお客様からの支持が自分を支えていました。
大好きなウェディングも担当していましたので、
なおさら頑張れたように思います。
病気になるヒマもなく、
自分の勤務は人には言えないような体制でしたけど…(笑)。
今でも街で『店長!』なんて声を掛けられることがあり、
嬉しいやら恥ずかしいやら」。
その後、系列のレストランで責任者を務めるも一大決心、
更に高みを求めて自ら退社する。
真に極めたいウエディング業務を専門に勉強し直すべく、
都内へと専門研修に向かった。
そこでの姿を見た業界の重鎮から、『新潟でブライダルの仕事をしたいのなら』とぐれいす(GRACE)を紹介される。
「びっくりしました。ぐれいす(GRACE)って、店長をやってた店で付き合いのあった会社だったんです。
確かに新潟には、ぐれいすのように自分が直接知っているブライダルの企業もありました。
でも店での立場を利用するようで抵抗があり、転職のための事前の行動は一切していませんでした。
研修が全て終わったうえで、イチから就職活動をしていこうと思っていたんです」。
ぐれいす(GRACE)側も松橋本人をよく知っている筈ではあったが、面接は何回にも及んだという。
「以前から、コーディネーターの資質を最重視する会社と聞いていましたので、面接の回数の多さには
あまり抵抗はありませんでした。さすがに採用が決まった時はホッとしましたが。
『大好きなウェディングの仕事が専門でできる!“思えば叶う”ってこういうことか!』と思いました」。
 |
ウェディング本番中もこの笑顔! |
料理やドリンクにも詳しく、顧客からの支持は厚い。
経済産業省所轄(社)BIA認定
「アシスタントブライダルコーディネーター」資格所持。
趣味は競馬と長距離ドライブ、野球観戦、そして“大塚愛”。
「彼女のライブは極力行きますよ。あの歌詞と曲、パフォーマンス。
おまけにあの声とビジュアル…。天才だと思いません?」
山岸 多恵子 (やまぎし たえこ)
新潟県南魚沼市出身
地元の学校を卒業後、音楽を学ぶために都内の専門学校へ進学。
卒業後は都内で食品関係の製造販売を、
また大手外食チェーンの飲食店ではキッチンを担当。
 |
小学校時代。
男の子に間違われることも。 |
 |
10代の頃の食品製造&販売は
ベーカーリーショップでした |
|
新潟に帰郷し食品販売業に就くも、
衛生管理体制の甘さにどうしても納得できず、退社する。
その後、請われて地元の自動車部品会社に所属し、
5年間で部下を擁するまでに成長。
しかし当時の業界情勢のあおりで勤務先(新潟事業所)の統合・閉鎖が決定。
東海地方の事業所への移籍の誘いを受けるも、
“地元で自分は何がやりたいのか” を再考すべく、退社を選択する。
「自分が自信をもって、『これだけは出来る!』と言えるものが欲しい」
この思いで、かねてから希望していたウェディングの仕事を探すが、
折からの不況で求人もなく、諦めかける。
奇跡的に併職型(専業スタイルではく、
他の業務に従事しながら並行して当該業務にあたる形態)での
ウェディング枠があり、見事採用を手にする。
「そこは、自然の景観と手入れの行き届いた芝生を持ち、
レストラン営業をはじめパン工房の営業、
地ビール・日本酒・オリジナル商品の販売をはじめ、
釣り堀やバーベキュー施設まで運営している会社でした。
 |
部品会社時代。
意外と(!?)似合う制服姿で。 |
 |
閉鎖される勤務先のお別れ会で。
淋しいはずが盛り上げ役に。 |
“自然の中のリゾート施設”という感じです。
その一員として目の回るような忙しさを経験し始める中、
なんと私が芝生や多目的ホールで行うウェディングの
お客様を担当することになりました」。
ついに、ウェディング業への第一歩を踏み出し、同時に、約半年間にわたって
新潟市内のウェディング企画専門会社に研修に通う。
通っていた専門会社からは、接客や基礎知識だけでなく
ウェディング当日も顧客サポートの指導を受け、少しずつ自信をつけていった。
「華やかそうな“ウェディングプランナー”という仕事は、細かい業務も多く、
十分な忍耐力と精神力が要求されるものでした。
社内の他の仕事も手掛けていると、精神的にも体力的にも、
想像以上に過酷です。
でも、今までの仕事では感じたことのないくらいやりがいを感じました。
“思い”“気持ち”をカタチにする仕事であって、
新郎新婦のおふたりはもちろんのこと、
ゲストやそこに携わるすべての人たちに感動を与えることができる、
最高に魅力的な仕事だと思いました」。
次第に、仕事としてのウェディングの素晴らしさと、
その重責の両方を理解するようになる。
「仕事量の多さは想像以上にヘビーでしたが、ウェディングが無事に終わってから、
お手紙を下さる方やレストランにお食事に来てくれる方もいらっしゃって、本当に嬉しかったですね。」
婚礼を10数件担当した頃から、改めて“自分は何のために働くのか、
働く目的は何か”について熟慮を重ねる。
賃金を得るために働く、というだけでは不本意であり、
“もっと専門的にウェディングの仕事をしたい”との思いでスキルアップを期して、退社する。
 |
接客中 |
「ズルズルと時間だけが過ぎてしまいかねず、
そんな中途半端な気持ちで接客をしては、結婚するお客様に失礼だと思いました。
ウェディングの仕事の求人が常時タイミング良くあるものではない、
というのはわかっていましたが、自分で自分を追い込んで、
退路を断ったようなものでした。」
退社後、想像した通りで就職活動は全くもってうまくいかない。
自身の年齢も気になり、焦りはピークに達した。
「追い詰められた私がアタックしたのが、前社時代を研修してくれた、
ウェディングプロデュースの専門会社でした。
実は、その会社に入れたら理想だとは以前から思っていましたが、ずっと躊躇していて…。
ここまで来たら恥も外聞もない、という心持ちでした(笑)。
でも、さすがに、ものすごく丁重に、でもしっかりと断られました」。
そのウェディング専門会社にしてみれば、
企業道義上、退職したとはいえ他社からの依頼で育成したプランナーを
雇うのは相当な覚悟が必要。断られるのは当然の結果だった。
「何回かアタックする中で、その会社から『そこまでして、
なぜウチの会社でウェディングの仕事がしたいのですか』とも聞かれました。
自分の思いを答えると、『そういった思いを持ってウェディング業界に
就職を希望しているのは山岸さんだけではなく、
残念ながら、とてもたくさんいらっしゃいます』と言われました。
他の希望者との違いがわからない、という意味だったと思います。
当然の事を言われたわけですが、ヘコみました(笑)。
しかも、育成研修で私の性格は少しは知られている筈なので、
さすがに無理かと思いました」
そのウェディング専門会社の名前は、「ぐれいす(GRACE)」という。
しかし、その後も更に数回に及ぶ面接の末、ついにぐれいす(GRACE)のスタッフの座を勝ち得る。
「先輩達はスゴイい演出家揃いですが、ぐれいす(GRACE)って、
奇抜な結婚式をいくつもプロデュースできたり突飛なサプライズを演出できたりする、
アイディアマンのタイプのスタッフを望んでいる会社ではないんです。
 |
プランナーとして新婦に寄り添い
ドレスの裾を調え中。
「表向きのイメージより、
目立たない仕事かも(笑)」 |
必要なのは、会社が一番大事にしている、
“『お客様に対して、丁寧にじっくり時間を掛けて
要望やリクエストを聞き、全力で新郎新婦をお手伝いする』
という姿勢を、『心から』とれる人材かどうか”。
これを見極めるんだと思います。
私がそうなのかどうかは、自分ではまだわかりませんが…」。
経済産業省所轄(社)BIA認定
「アシスタントブライダルコーディネーター」資格取得。
趣味は、お菓子作りや美味しいものの食べ歩き、そして旅行。
現在も、前社の時代と同様に、
その人なつっこい笑顔に新郎新婦から感謝の手紙が届く。
飯山 裕美子 (いいやま ゆみこ)
新潟県新潟市出身
 |
BGMの頭出しをしながら
会場内にも気を配る。 |
新潟では高知名度を誇る、
完全自家醸造ワイン会社に15年間勤務。
 |
女性ならでは配慮が好評。 |
その会社ではレストランも運営し
ウェディングも手掛けていた。
在職中は、レストランの婚礼料理のサービスから顧客である新郎新婦のウェディング担当まで、ウェディングに関わる全ての業務を網羅。
ぐれいす(GRACE)とは同じウェディングを共にサポートし合うなど、
もともと接点があり信頼関係も既に築かれていた。
 |
パーティーお開き後、
おふたりとゲストからお褒めの言葉が。
泣きそうです。 |
長くウェディングに携わった後に後進に道を譲り、
ぐれいす(GRACE)に参画。
後進の指導も併せ、ウェディング当日は新郎新婦や
結婚式・披露宴内をサポートする業務も担当。
円滑な進行には不可欠な存在になっている。